SNSで話題になった例の映画館と車椅子云々について、個人的に思った事。
思った事である。改善すべきとか、じゃあどうすればいいのかとか。色んな方の視点に立つとやはり明確なものは正直出てこない。それで解決するものなら、きっととっくのとうにもっと改善されているのだろうとも思う。
それでも思ったことを、つれづれと書くだけである。
私はここ数年、家族が介護が必要になり(ALSだ)人生で初めて介助や介護というものに触れた。(母が車椅子を利用するようになってから、家族で映画館にも行った事がある)
不器用な私や父、器用な妹を見ていたり、色んな看護士さんやヘルパーさんにお世話になって数年。
私が思うのは介助や介護は『能力』であるということだ。
勿論、時と場合によるだろうけれど、基本的に介助や介護は『善意』だけでどうにかなるというものではないと実感した。
障がいのある方が困っていたら助けましょう。分かる。家族が障がい者になってから、助けて欲しいこともたくさんある。そして資格のある方しか手を出してはいけない領域があって、でもそれに困らされる事も多い。
車椅子とは関係のない話だが、介護の話をひとつ。痰の吸引は資格のある人しかやってはいけない。危険もあるからだ。ヘルパーさん達はわざわざ研修を受けて、その資格を取得してくれるところから始めてくれるのである。
でも家族は、なんの研修も受けないまま痰吸引をやらなければいけない(看護士さんが傍で見てて何度か教えてくれる程度、それも時間がないから、例えば徹底的な『講習』的なものでは全くない)。家族は良いのである。そういうルールらしい。生かすためだ、仕方がない。でも危ないよなと思う。もし母が痰を詰まらせて窒息してしまった時、なんの研修も受けていない我々はきっと自分を責めるだろう。自分の介助が下手だった為に殺してしまったと思うだろう。
何かあった時というのはこういう事である。母は「その時は仕方ないよ」と言う。しかし果たして、それが介護する側のなんの心の慰みになるであろう。
車椅子は重い。人が乗っていたら尚更だ。しかも持ちやすくもない。問題は重さだけではないのだ。どこを持つか、車椅子に乗っている人がいるならばその人の重心の事まで考えなければならない。女二人だって危険すぎると思う。やらざるを得ない事もあろうが、進んでやりたいと思う人はいないだろう。
だって何があってもその人を守らなければならない。自分だってもし車椅子が足に落ちでもしたら骨折だ。リスクが重い。なのに、自分以外のその人を守ることを重要視しなければならないのである。
そんなの仕事じゃなきゃやってられないだろうと、私は思う。仕事でだって、仕方なくで、相当覚悟がいると思う。
繰り返すが、介助と介護は『能力』だ。善意だけでは補えない領域が山とある。
その能力はある程度の勉強と訓練と経験があれば、それなりに誰でも身につけられるだろう。そこまでしなくてもできる介助も多分、山程あるだろう。
しかしその介助ですら正直、その『能力』の発揮のされ方は人によってバラバラになるだろうと私は思う。
手順をしっかり憶えているか予測できるか、どこまで気が回るか、介護者のことも周囲のことも気にかけているか、人体の構造を把握していてどうすれば辛くないか予測できるか、どんな危険がありそうでそれを回避するためにどうするか。考える事なんて山程あるのだ。
そしてこの気の回し方は訓練を積んでいない人間ならば絶対に『差』が生じる。
何事もなければ同じ行いをしたように見えるかもしれない。
でも、もし有事が起こった時に、上記のことを気を回して介助した者と、そこまで考えないで介助した者ではその差は歴然と現れることだろう。
介護に四苦八苦する私達に母は何の気なしに言う。「◯◯さんはできてた」「◯◯さんはこうしてたんだから、練習して」「憶えてくれなきゃ困るよ」
勿論それができるようにならなければならないのだろうけど、そこには経験にせよ天性の才にせよ『能力』があるのだ!!頑張ればできるって話ではない!!人が良ければ、優しければ、なんとかしてあげたいと思ったからってできる話ではない!!
某夢の王国なんかでも、やはり有事の際は介助者がその人を守って逃げられるかどうかを絶対に確認してくる。その『能力』があるのかを確認してくれる。
優しい世の中になればいいと思う。
私も母が車椅子になって、世の中が思ったより車椅子ユーザーに冷たい事を思い知らされた。
思ったより人は全く避けてくれないし、エレベーターだって専用でもズカズカ乗り込んでくる。
私は元からそういう事はしないようにしていた人間だったので、皆もそうだろうと勝手に思っていた。困った事はないからそういうものだと思っていた。でも実際、現実は甘くなかったのも事実である。
映画館の車椅子用のスペースに行くのだって、そのスペースがあるから良かった!ではない。当たり前だけど、他にも色んなお客様が観に来ているのだから、狭い通路を車椅子が通るタイミングも考えなければならない。
勿論道を譲ってくれるお客様もたくさんいるけど、全員が全員そうじゃない。優しい世の中になればいいけど、でもこっちだって『なるべく誰かの邪魔にならないタイミングで通るようにしよう』という気持ちは忘れないようにしていたい。その時にお互い始めて優しさを持ち得ているはずだ。
介護する側になって思った。
正直、並外れた善人じゃないと『愛』とか『善意』だけで介護ってやってらんないって思う瞬間、多々ある。愛に生きられる日もある。でも人間だからそうじゃない日もある。
仕事じゃないからお金も発生しない、でもそんな中でも『愛』や『善意』で家族や友人や見も知らぬそれでも困っている誰かを助けてくれる人は世の中にいるだろう。
でも『愛』と『善意』は誰しもが無償で提供してくれるものじゃない。
じゃあサービスなら? でもそこには絶対に『責任』が発生してきて、だとすれば何かあった時にも責任を取れるだけの『能力』があるかの問題になってくる。
介助や介護は『善意』だけでは成り立たない。その影に『能力』や『責任』がついてくる。
それを『善意』の介護を無差別に大多数の人へと求める人にも知ってて欲しいと、私は思ったので、つれづれと、支離滅裂に書いたわけである。
映画館は車椅子ユーザーのために車椅子の人が利用するスペースを設けている。それが会社側ができると判断したサービスの範囲内だろう。十分対応してくれてる内に入ると私は感じる。
……勿論、求めたものが完璧に揃ってるかといったらそうじゃない。正直な話、多分車椅子のスペースって階段を避けるために通路のすぐ傍だろうから、画面近すぎてデカイよね。首、痛くなると思う。ツライと思う。キツイと思う。母もしんどそうだった。身体障害のある人ほど、勿論楽なスペースで見れたら一番いいと思う。
でもじゃあ階段どうすんの?じゃあスペースいっぱい取ってスロープだの昇降機だのも作ってそこに車椅子の席作っても、実際そこを利用してくれるユーザーってどれくらいいるの?普通の席にしてたほうが利用率も上がらない?料金は?会社による財政の状況は?人材の数は?エトセトラ、エトセトラ……。
現実的な側面も見えてくると、私は大声で『車椅子ユーザーが最も見やすい席にいけるよう配慮しろ!!』とはやっぱり簡単には言えないのである。
あとこれ全く介護には関係ない毒を吐くんだけど。
過ぎたサービスや善意押し通して求めた客って次回も同じことしてもらえると思って来るけど、総じて普通に困るし、厚かましいなって大体は思われてるぞ。(そうじゃない人も勿論いるだろうけど)
だって他のお客様はそれを求めてこないんだもの。店員に親切にしてもらって、自分は常連って風に親しげに話しかけてくる人もたくさんいるけど、店員からしたら、そういうのなく普通に利用してくれるお客様の方が百倍有り難く思ってるよ。
表向きは笑顔でサービスする事もあるけど、裏ではどう思われてるかなんて分からないもんだよ。『善意』とか『サービス』ってなんだろね。